以前ブログでちらっと触れたことがあるのですが、「普賢の中に太公望が理解できなかった部分があって、そこを一番理解していたのは太乙だった」というドリームがものっそいお気に入りです。今回はこのドリームについてお話してみたいと思います。
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ドリームという言葉を使いましたが、太公望と普賢の部分に関しては完全な妄想というわけではありません。原作を読んでいると、太公望は普賢の最大の理解者であると同時に、「封神演義」という物語の中で描かれていた普賢の側面を最も理解できていなかった人でもあるように感じるのです。そのことが端的に表れているのが普賢の自爆だと思うので、ここから話を進めていきたいと思います。
太公望は普賢の自己犠牲的な性格をよく知っていました。それこそ一番よく知っていたと言ってもいいのではないでしょうか。そんな太公望が普賢の自爆という肝心要のシーンで、彼を完全に読み違えてしまいました。一体なぜ太公望は、普賢が自爆という手段を使うことを見抜けなかったのでしょうか。もっともわかりやすい理由は「太公望が普賢の自爆装置の存在を知らなかったから」というものです。これは確かに一面の真実でしょう。自爆装置の存在を知っていたら、太公望は普賢が自死に近い死を迎えることを想定せずにはいられなかったはずですから。しかし装置の存在を知っているか否かは問題の本質ではありません。そもそも普賢が聞仲もろとも心中するつもりなら、自爆装置を使わなくてもできたことでしょう。太公望は「自分が死ぬことで聞仲を倒す」という普賢の決意に気付いていなかったのです。これは普賢に自爆を選択させた価値観を、太公望が掴み切れていなかったからではないでしょうか。
普賢の自爆は一般に「自己犠牲」と評されるような行動です。自己犠牲といえば太公望の代名詞のような言葉ですね。それなら二人を「自己犠牲タイプ」の人間とひとくくりにできるかというと、私はちょっと違う気がするんです。二人の自己犠牲の中身は似て非なるものですから。
太公望は仲間を守るために何度も自分を犠牲にしてきましたが、かといって自分の命を捨てるような戦い方はしません。優先順位が「他人>自分」であるために、負わなくていい危険まで負ってしまうのですが、それでも彼の基本方針は自分も含めた全員を生かすことです。できる限り生き残ろうと最善を尽くすことは、「封神計画のために命を賭ける」覚悟とは矛盾しません。
一方の普賢は決して自分が助からない手段を選びました。聞仲戦に限って言ってしまえば、太公望の案でも十二仙が全滅していた可能性は高いでしょうから、より確実性の高い策を取ったのだという考え方もできます。実際他の十二仙の考え方はこれに近いのでしょう。しかし普賢だけは別です。彼にとってはたまたま聞仲戦が自爆を選ぶ機会になったというだけのことです。なぜなら彼はあらかじめ「自爆装置」を用意していたのですから。普賢の選択が切迫した状態からやむなく形成されたのではなく、平穏な日常の中で時間をかけて固められていったことからも、自爆という出来事の根底には外部的要因より内部的要因が大きく存在するように感じられてなりません。
「自分を守ろうとあがいたものの、かなわず、死を迎えてしまう」のと「最初から命を放棄してしまう」のとでは天と地ほどの差があります。たとえそれが同じ「自分を犠牲にして他人を生かす」行動として現れるのだとしても。自爆直後の二人の会話は、この決定的な違いについての話なのだと思います。太公望は「みんなが生きて残れるように」戦っていると言いました。だから「おぬしとは違う」のだと。
二人の「自己犠牲」のあり方の開きは、「差し手」と「駒」の違い(嫌な言い方ですが)に理由を求めることもできますが、一時の立場の違いだけに帰すものでもないでしょう。二人の価値観の違い、もっと具体的に言えば、普賢が切り捨てる発想の人で太公望がそうではなかったという違いなのだと思います。それを示唆するように、「殷を害するものはすべて滅ぼす」という聞仲の意図に気付けたのは、太公望でなく普賢でした。(聞仲との違いは、切り捨ててよいものに自分以外を含めなかったことでしょうね)
こうした二人の違いを太公望が捉えきれなかった要因の一つに、太公望と普賢が非常に似ている人間だったということが挙げられると思います。あまりにも近しかったからこそ、自分たちの違いが見えづらかったのかもしれません。また太公望は普賢によって「自分たちは似ている」と思いこむ方にミスリードされていたのではないかとも感じました。「自分たちは似ている」という趣旨の発言は2回(下界シーンと自爆直後)登場しますが、どちらも普賢から出たものでしたから。普賢が自分の決意を一番知られたくなかった相手は、間違いなく太公望です。普賢が自分たちの違いに自覚的だったとしたら、太公望には気付かれないように隠し通そうとしたでしょう。下界シーンでは普賢の言葉に特に疑問を示すでもなく耳を貸していた太公望が、自爆を経た後の「望ちゃんだってそうじゃない」には激しく反駁しているのも印象的でした。
以上のように普賢には太公望が理解できずにいた部分があって、それこそが「封神演義」における普賢のストーリーの根幹を成しているのだと思っています。
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そんな普賢を一番理解していたのが太乙・・・というのは完全に太乙びいきの私の妄想です(笑)だってうちのサイトは太乙(と太公望)を中心に回っているから!十二仙同士だし、弟子は兄弟だし、理系で話も合っただろうから、普賢と太乙は仲が良かったはずだよ、うん。くわえて太乙ならドドメコンビを等距離から見れたのではないかという都合のいい妄想もしています。幼いドドメが仲良く太乙の洞府に入り浸っている図を想像してください!むっちゃ幸せな光景!太乙は面倒見がいいから、二人を等分にかわいがっていたんじゃないかなー。ついでに意外と鋭い太乙が二人の違いを感じ取っていたらいいんじゃないかなー。
また自爆を決意した普賢の心境に限って言ってしまえば、前線組の他の十二仙よりも、生き残る可能性の高かった太乙の方が敏感に察知したような感じがします。仲間に生き残ってほしいのは誰しも一緒ですが、後方組の方が「覚悟の上の死」に納得できない気持ちが強いような気がするんですね。太乙は太公望と同じくらい普賢も大切だから悲しいやら腹立たしいやらやるせない気分になっちゃって、普賢は普賢で誰かに自分の心情をのぞかせてしまう程度には甘えを残していて、結果的に封神計画中はぎくしゃくしてしまう二人が見たいです。自分で書けばいいんですね。・・・努力します。