杏仁豆腐

 

姫昌さまの部屋から出てきた太公望どのは、俺を見るなり何を言い出す前から苦笑いを浮かべた。

 
「これはわしの失策よ。おぬしが気に病むな」
「・・・・・すまねえ」
「何はともあれ姫昌も数日ぶりに食べ物を口にした。完全な失敗とも言えぬ」
 

自分に言い聞かせるような呟きに、姫昌どのの状態が俺の予想よりずっと悪かったのだと改めて認識する。

太公望どのがゆっくりと廊下を歩き出す。俺には遅いその速さに合わせて歩くと、さほど進まぬうちに太公望どのは立ち止って欄干に背中を預けた。同じようにすると壊しそうだから、俺は組んだ腕を真上から乗せる。それでも小さく軋む音がした。

 
「おぬしの杏仁豆腐、うまかったぞ」
 

暗に責めるような雰囲気はなかった。純粋なほめ言葉と解釈して、俺は普通に返す。

 
「そりゃどうもな」
「わしの一存なら、まちがいなくおぬしの勝ちだ」
「オメーが甘党だからだろ」
「いや。武成王を引退したら、甘味処を営めばいい。儲かるぞ」
「ハハっ!老後の小遣いくらいにはなるかもな」
「あれは奥方から習ったのか」
 

思いがけない方向に話が進んで、一瞬言葉につまった。太公望どのを振り向きそうになったが、すんでこらえる。

 
「ああ」
「奥方は料理上手なのだな。以前いただいた饅頭も絶品だった」
「------------そんなこともあったな」
 

蛇穴に落とされかけた太公望どのをしばらく匿っていた時の話だ。家族を危険にさらさないように事情を話さず食事を頼むと、賈氏は饅頭を作ってくれた。人目につかずに運べると考えたのだろう。あいつは本当に気が利く奴だった。

周囲が思っているほど、賈氏の話題は苦痛じゃない。太公望どのはそれを察しているだろうが、それにしても賈氏の話題は唐突に思えた。今さっきただの賛辞と取ったのは間違いで、この話の先に何か用意された話題があるのだろうか。勘ぐりながらも、当たり障りのない返事に留める。

 
「料理のことなんてよく覚えてたな」
 

隠れ家の怪我人はほとんど自失しているように見えた。さすがに苦いものが混じっていたが、太公望どのは小さく笑った。

 
「うまいもののことは忘れられぬよ」
「そういうもんかもな」
「仙界で暮らすと誰でも一端の食通気取りになる。他に娯楽がないからのう」
 

仙界に住んだことはないが、その言葉には納得しかねた。明らかに該当しない奴をよく知っているからだ。
だが実際に口に出したのは、それとは違う名前だった。

 
「そうなのか?天化はそれほど食い物に頓着しねえけどな」
「あやつは筋トレが娯楽だからであろう。おぬし、その言い方ではわしが食い意地が張っているように聞こえるぞ」
 

頬でも膨らませていそうな気配だ。咄嗟に思い浮かべた姿を見透かしている雰囲気はない。
印象があてにならない相手ではあっても、それだけで少し胸が軽くなる。

 
「事実だろ?」
「よいではないか。わしはうまいものが好きなのだ。甘いものは特にのう」
「・・・あいつの杏仁豆腐は俺のよりずっとうまかった。オメーなら中毒になること間違いなしだ」
「それは食べてみたかった」
 

無心に惜しんでいる。そういう口調だった。俺はようやく見当違いをしていたことに気づく。
この話には何の意図もこめられていない。ただ喪われるものの予感が賈氏を連想させただけなのだ。
仙界にいた太公望どのにとって、近しい者を失っていく感覚は長く遠のいていたものなのかもしれなかった。

(だが、今目前にしている別れは始まりにすぎねえ)

たった一つしか望まないこの男は、そのたった一つのためだけにどれほどのものを失っていくのだろう。

 
「あいつのようにはいかねえけど、俺のでよけりゃまた作ってやるぜ」
「おお、それはかたじけない!」
 

太公望どのがぱっと身体を起こして、俺を覗き込んでくる。年齢を忘れそうな笑顔に胸の奥が軋んだ。
そう遠くない未来にこいつはこの味も失うのだと、俺がそんな予感を抱えていることに太公望どのはまだ気付いていない。

 

 

 

 

fin

スイーツが入ればなんでもバレンタインになると思うなよ!(鏡に向かって)
飛虎の一人称が地味に難しいです。

[12/02/14]

Back