「呂望がね」
その情報を玉鼎に持ち込んだのは太乙だった。
「君の洞府の裏庭にちょくちょく入り込んでいるらしいよ。知ってた?」
太乙は特に噂話に興じるタイプではなかったが、一見無愛想で近寄りがたい玉鼎に比べると情報をもたらしてくれる知人が多かった。
「知らなかった。裏庭にはあまり行かないからな」
「何度か見かけた人がいるんだけど、いつも陸のぎりぎりのところにいるらしい。
今度会ったら注意した方がいいよ。落ちたら助からないからね」
「見かけたなら、その場で注意してやればよいものを」
「呂望が私たちの個人指導を受けているのを知っているようだったから、
君も承知の上だと思ったんじゃない?」
心身の打撃が癒えないうちから修行を始めたがった呂望は、現在十二仙から個別に指導を受けている。他の道士たちとの通常の修行に加われるまで、という元始天尊の特別なはからいだった。修行をしていれば気も紛れるだろうという表向きの理由の他に、将来重大な計画を背負って立つ少年と崑崙幹部の間に早くからつながりを作っておく目的もあるということは、玉鼎も太乙も察していた。
「これだけ個人指導のことが知れ渡っているとなると、他の道士からの嫉妬が心配だな」
本来嫉妬などという俗な感情から脱却してこその仙道なのだが、物事が理想の通りに進むことが少ないのは仙界も人間界も変わらない。
以前から心の片隅にあった懸念を再認識する玉鼎は、太乙の様子に片眉をあげた。
「なにかおかしいか?」
「呂望のこと、ずいぶん気にしているよね」
肩を震わせている太乙は、いかにもおかしそうな様子で玉鼎を上目づかいに見る。おかっぱ頭の彼のそんな動作はどこか乙女じみていて、玉鼎の目には蠱惑的にすら映るのだった。
「笑っているのに寂しそうな瞳をしている者を見ると、ついお前を思い出してしまう」
「子どもが好きなだけでしょ」
+
太乙の話を聞いてから、玉鼎は裏庭に注意を向けるようになった。
裏庭と言ってもそんなに大がかりなものではなく、洞府の窓からおおよそ一望できる程度で、見張るのもたやすい。
そこに人影を見つけたのは、たった3日後の夕ぐれ時のことだった。
あたりはうす暗く、侵入者の細かな情報は見て取れなかったが、玉鼎は呂望だと確信した。
気配を隠して裏庭にまわり、しばらく様子をうかがう。小さな侵入者は陸のふちで腹這いに横たわり、下界に身を乗り出すような態勢だった。
情報源の人物も同じ状況を見たのだろうか、と玉鼎は顔をしかめる。
(陸にぎりぎりとは、こういうことだったのか)
「人間界が恋しいか」
修行を始めて間もない者に、足音を殺した剣客の気配が感じ取れるはずがない。
声をかけられてはじめて、呂望は驚いた表情で振り返った。
「玉鼎さま」
「よくここに来ていると聞いた。落ちたら危ないぞ」
いつもと変わらぬ淡々とした口調は、聞く者によっては冷たく響いたかもしれない。
だが呂望は萎縮するでもなく、玉鼎をまっすぐ見返した。
「ごめんなさい。ここからは地上がよく見えるものですから」
「地上と言っても、この下には人里などないが」
「それでもよいのです。ある人に死者は土に還るのだと言われました。
ですから地面が見えるなら、それで」
「----そうか」
その言葉に玉鼎は一瞬、父母を恋しがって泣いていた幼い日の愛弟子の姿を思い出す。
しかしあくまで陰りのない口調を崩さない呂望とはうまく重ならない。弟子に代わって思い浮かべたのは、やはり飄々と振る舞う同僚の顔だった。
「無理に笑わなくてよいのだぞ」
「玉鼎さまは、お優しいですね」
呂望は笑う。その様子が痛々しくて、玉鼎は小さな手をとった。
「ちょっと来なさい」
「?はい」
返事も待たず歩き出す玉鼎の背に呂望は一瞬戸惑った顔を向けたが、素直に従った。
呂望は洞府の屋上に導かれた。初めて立ち入る場所に興味を隠せないらしく、失礼にならない程度に周囲に目を配っている。
「ここも修行場なのですね」
「ああ。だがおまえに見せたいのは、そんなことじゃない」
玉鼎は屋上の中央にゆっくりと歩を進める。すでに手は解かれていたが、呂望もあとに続く。
「空をごらん」
「すっかり暮れてしまいましたね」
「ああ、星が輝きはじめている」
聡明な子どもが意図をうかがうようにこちらを見ているのを感じながら、玉鼎は空を指差した。
「死者は空に還って星になる。私の住んだ地方では、そう言われていた」
「星、ですか」
つられて呂望も空を見る。今はまだ闇が薄いせいか星の数も少ないが、空気の澄んだ仙界では地上より多くの星を見ることができる。
仙界に来て日の浅い呂望も、その美しさをよく知っていた。
「死者が地に戻るのか空に昇るのか、死なぬ身にはわからない。
だが空の方が仙界に近いのだから、一度星々の中にお前の一族を探してみるのもよいかもしれないぞ」
「----ありがとうございます」
またあの痛ましい笑顔を浮かべているのだろうか、と玉鼎が少年に視線を移すと、案に違って呂望は険しい顔で空を見つめていた。
玉鼎はすっと、呂望から離れる。
「好きな時に来て、好きな時に帰りなさい。鍵などかけていないから」
「はい」
言葉をかけられても、呂望は空から目を離さない。一心に頭上を見上げている。
玉鼎は呂望を置いて、屋上をあとにした。
+
日をおかず再び訪ねてきた太乙に、玉鼎は彼らしくかなり端折って、呂望とのやりとりを報告した。
「星、ねえ。それで呂望は来るようになったの?」
「屋上には行かないが、何度か洞府を訪ねて来たよ」
「ふうん、君は優しいねえ」
そう言う太乙の表情は、あの夜玉鼎が呂望に重ねた顔と全く一緒だった。
「人間界を見せたくなかったんでしょ。
君の洞府じゃないところで地上を見下ろせば、うっかり戦争を見てしまうかもしれないからね」
「----呂望は、どこかおまえと似ているから」
「子どもが好きなだけでしょ」
太乙は歌うように応じた。
fin
以前書いた「星月夜」とほんのちょこっとリンクしてます。セットで書いたのですが、こちらはなかなか仕上がりませんでした。
[2010]