僕が育った洞府は、花がたくさん咲くきれいなところだった。
春にはサンザシ、夏には芙蓉。
僕がある程度大きくなると、師匠は僕の後ろを歩くようになった。
修行場への行き帰り、振り返るたびに師匠は笑った。
楊ぜん、ここにいるよ。
その言葉に安心して、僕はまた花の中を走り出す。
いつも同じだったのに、何度も振り向いたのはなぜだっただろう。
野ざらしの長椅子に腰かけた黒衣の仙人は、闇に溶けてしまいそうだった。
日夜実験に励む彼は大抵強い光の下にいるから、受ける印象が日頃とまるで違う。
「隣、いいですか」
「君が訪ねてくるなんて珍しいね」
何か事件?と聞かれてしまうと、そんなに珍しいかと苦笑してしまう。
「いいえ。お酒でもご一緒できたらと思って」
「ますます珍しい」
「僕と飲むのはお嫌ですか」
「まさか。君といて嫌だと思ったことなんてないよ」
穏やかに紡がれた否定の言葉は、多分紛れもない真実だった。
太乙様が少し奥にずれて下さる。そこに腰を下ろして、持参の酒の栓を開けた。
「お月見なんて珍しいですね」
「んー。星を見ていたんだ」
「そうですか。邪魔しました?」
「独り占めしていい景色じゃないよ」
酒を注ぐ手を休めて、空を見上げる。雲一つなく高い空に、今夜の星はとりわけ賑やかだ。
自然に訪れた沈黙は存外心地よかったけれど、流されないように口を開いた。
「・・・僕はあなたのことが嫌いでした」
「みたいだねえ」
「師匠を取られる気がして、怖かった」
「それは申し訳ないことをしちゃったのかな」
憤慨してもいいはずなのに、思った通りいたわるような口調だった。僕は首を横に振る。
「あなただけじゃないんです。師匠は広くて深い人でしたから。
僕はこれ以上ないくらい愛されているのを知っていたのに、
自分が師匠の心のどこにいるのか、いつも不安だった」
花や草や、地を這う虫、道端に転がる石にさえ。
その時々で目に入るものに惜しむことなく愛情を注ぐのが、師匠だった。
こんなことを思い出す。白い花の作る影の下を、まだ師匠に手をひかれて歩いていた頃。
修行場に向かう道の途中、空から鳥が降ってきた。
その鳥は少し前から庭に住みついていた小鳥で、洞府にこもりきりでいた僕の数少ない友達だった。
落ちてくる小鳥に僕と師匠は同時に気がついた。僕はぴくりとも動けなかった。
呆然としていたのかもしれない。
かわりに反応したのは師匠だった。僕が声を上げる間もなく、僕の手を離して走り出していた。
師匠の目にも止まらぬ俊足を見たのは、あの時が初めてだった気がする。
いつも清潔に保たれていた師匠の道服の膝が汚れるのを見たのも。
師匠の俊足をもってしても、鳥を受け止めたのは間一髪のタイミングだった。
地面に叩きつけられる寸前、すくいあげるようにその身体をとらえた師匠は、ゆっくりと立ち上がった。
手の中を見つめる目つきは悲しげだった。
「楊ぜん。おまえのお友達は、おまえにお別れを言おうとしたようだよ」
僕は幼くて死というものをきちんと理解していたわけではなかった。
けれど大きな手の中に訪れたものがそれだということくらいはわかっていた。
落ちてくる時すでに命が果てていたことも。それを承知で師匠が骸を受け止めに走ったことも。
汚れた服なんて、師匠はこれっぽっちも気にしていないようだった。
「楊ぜん、おいで。おまえもお別れを言わなければいけないよ」
小さな体を握りつぶすこともできる手が、熱を逃すまいとするように小鳥を包んでいたことを、僕は鮮明に覚えている。
「この子は空に上って星になるんだ。きっとこれからも、おまえを見ていてくれるよ」
・・・・・・僕の手を離してまで師匠が受け止めた小鳥が、あの時どうしようもなくうらやましかったからだ。
「君はいつだって、玉鼎の真ん中にいたよ」
私はそれを、ずっと見てきた。
誓いを立てるような高仙にうなずく。
「ええ」
今ならわかる。師匠は「僕の友達」を受け止めに走ったのだと。
弱いものをとりわけ慈しんだ師匠だ。思い入れのない鳥でも、二度と息をしないとわかっていても、小さな体が地面に打ち付けられるのを黙って見過ごすことはできなかっただろう。
それでもやはり、あの時の師匠にとって受け止めた小鳥は「僕の友達」だったのだ。
「僕は愚かでした」
「愛されたいと願うことを愚かと言うなら、私たちはみんな愚か者さ」
口調も声も全然似ていないというのに、なぜか一瞬師匠と話しているような錯覚を覚えた。
多分同じなのだ。その深い肯定が。
「それに人は、同じようには生きていけない」
「ええ。僕も変わりました」
いまの僕は、小鳥のために地面を蹴ることもできるのだ。
だからこうしてここに座っている。
師匠が深い愛を注いだあなたの前に。
「太乙様。あなたに言いたい」
--------------あなたは僕にかけがえがない。
僕はもう振り向かずに歩き続けることができた。
それは花がきれいな洞府がなくなったからではなくて。
懐かしい笑顔が帰らないからでもなくて。
(去って行ったものたちは、けれども何も奪わなかった)
春にはサンザシ、夏には芙蓉。
楊ぜん、ここにいるよ、と。
あなたの与えてくれた世界は、今日もこうして続いているのです。
fin
楊ぜんの成長を書きたくなりました。
うちは玉乙サイトなので太乙を登場させましたが、正直誰でもよかったです。太乙がおまけの話は珍しいかも。
[2010]