「どうしたんだい?ずぶぬれじゃないか!」
 

太乙は案の定起きていた。実験室を兼ねた私室は、騒音対策で他の建物からやや離れた場所に設けられている。扉を開けてくれた彼は今も実験をしていたに違いなく、手にはゴーグルを持っていた。言い知れぬ安心感を覚え、太公望の表情が和らぐ。

 
「急に気が向いてふらりと来てしまった。傘を取りに戻るのが面倒だったのだが、意外と雨が強くてのう」
 

あたっても溶けるわけではないし・・・内心呟いて、太公望は自嘲する。笑みの意味をはかりかねながらも、太乙はともかく彼を招き入れた。

 
「ほら、ちゃんと拭いて。私の服じゃ大きいかな。
 まあでも風邪をひくよりマシだからね。今お茶いれてくるよ」
「かたじけないのう」
 

思ったよりも手厚くもてなされて、太公望は少し恐縮していた。彼としては、実験をしている太乙の背中を眺めさせてもらうくらいのつもりだったのだ。

人心地つき、二人は向かい合って座った。太公望にとって短くない付き合いの太乙だが、こうして正面に座って茶など飲んでいるとなんだか新鮮な気分になってくる。こんな時間はいつ以来だろう。

 
「実験、邪魔してすまなかったな」
「んー、いいよ。ちょっと煮詰まってたとこだしさ。
 それよりこんな時間まで起きていて大丈夫なの?明日も忙しいんでしょ」
「・・・目が覚めてしまってな。少し散歩をしていた」
「ふうん。そっか」
 

太乙は深く追及してこない。太公望もそれ以上語るつもりはなかった。

 
「さっき天化とすれ違った。あやつの傷はどうなのだ?」
「天化くん?」
 

太乙の難しい顔を見て、太公望は声のトーンを落とす。

 
「良くないのだな」
「って本人も思っているみたいだけど、それほど悲観することはないんだよ。
 確かに傷は少しずつ悪化しているけど、そのスピードはとてもゆるやかなんだ。
 無茶をしなければ当分命に関わるようなことはない。
 だから私たちが治療法を見つけるまで、できるだけ大人しくしていてもらいたいね」
「しかし、あやつは焦っておる」
「そこが問題なんだよねえ」
 

口調こそ軽いが、案じる目は本物だった。自分以外の誰かの行く先を、真摯に思う眼差しだ。
雨音が、近づいてくる。

 
(太公望どの!!!あとは任せたぜ!!!!)
(太公望・・・楊ぜんをたのむ・・・)
(さよなら、望ちゃん!!!)
 

 
「太公望!」
 

名を呼ばれ、太公望は現実に引き戻される、案じる眼差しが、今度はまっすぐ自分に向けられていた。

 
「大丈夫かい?君、もしかしてずっと眠れてないの?」
「まさか」
 

驚いて強く否定する。そんなにひどい状態に見えるのだろうか。
安心させるために冗談のひとつでも言おうかと口を開きかけたが、先を越された。

 
「じゃあ、雨のせいか」
 

太公望はとっさに切り返すことができなかった。
自分でも顔がこわばっているのがわかる。これでは無言のうちに肯定してしまったようなものだ。

 
(わしも大したことがないのう)
 

諦観とも嫌悪感ともつかない感情がわきあがる中、なんとか失態をカバーするために笑みを浮かべようとする。しかしその試みは、またしても中途半端に途絶えた。
目の前に座る男がひどく傷ついた顔をしていたからだ。

 
「太乙、おぬし」
「ごめん。暴き立てるつもりはなかったんだ」
 

さらりと髪を揺らしてうつむいてしまう姿は、悔いているようにも怯えているようにも見える。太公望ははっとした。
太公望の様子から察したのではない。あれは太乙自身のことなのだ。

起きてから錆びついたように重かった頭が、急速に動き出す。思考がクリアになってきて、目に入らずにいたものに意識がいきわたり始める。太乙はきちんと休んでいるのか。疲れた顔は研究のせいなのか。彼と最も長い時を共有してきた男は、どうやって死んだのか。
太乙から視線をずらした太公望は初めて室内を見回し、思わず目を閉じた。

 
(この部屋の窓には幕など張っていなかったはずだ----)
 

 
「ねえ、太公望」
 

がらっと変わった声音に、太公望は瞬く。前回会った時より心なし白い顔が、懐かしい表情を浮かべていた。なぜ懐かしいと感じたのかわからない太公望は、それがもどかしい。

 
「なんだ」
「一緒に寝ない?」
「は?」
 

突拍子もない提案に、不意に過去の光景がだぶる。ああ、この顔は年がうんと離れた弟弟子をからかおうという顔だ。当たり前だったものが、とっさにその正体もつかめないほど遠い。胸にかすかに走った痛みから、今度は器用に目をそらす。

 
「あ、別に玉鼎の代わりをしてってわけじゃないよ?そんなことさせたら私、楊ぜんくんに殺されちゃう」
「何を言っているのだ、ダアホ」
「だって、一人がさびしいこともあるじゃない」
 

悲壮感はこめられていない。心得ている太公望も、軽口で応じた。無邪気な馬鹿をやっている顔で。

 
「あの寝台に二人寝たら、窮屈ではないか」
「狭いけど、寝れなくはないと思うよ?君小さいし」
「ほっとけ」
 

ぷうと頬を膨らませた太公望に、太乙はけたけたと笑う。太公望は立ち上がると、寝台に身を投げだした。まだ座ったままの太乙に背を向けたのは照れ隠しだ。

 
「早く来い」
「---うん」
 

返事のあとややあって、人の気配が隣にやってきた。慣れ親しんだ仙気。自分より大分長い腕が、包み込むように身体を抱く。去ったはずの眠気が急激に押し寄せてきて、太公望は目を閉じた。

 
「髪、まだ濡れておるぞ」
「いいよ。一緒に濡れよう」
「やはり狭いな」
「だけど暖かい」
「太乙、すまぬ」
 

心地よさに、堪えていたものが漏れ出した。意図せず晒してしまった無防備さに、太公望はしまったと唇を噛む。だが太乙はふっと笑った。それだけでもう何も言わず、ただ湿った太公望の髪に指を通す。繰り返し、繰り返し。

見透かして、包み込む。自分をこんな風に扱う男が、この世界にもうどれほどいるだろう。

何百年という年月を多くの者を束ねて生きてきた男の深い寛容と愛情に甘えて、太公望は夢心地ですまぬ、すまぬと繰り返した。

 

 

 

 

fin

根本的に何かが変わるわけではなくても、一時の安らぎくらいはあってもいいよね、というお話でした。若干カビ臭いのは、終わり方が決められなくて2年近く放置していたからです・・・。

[2012/6/27]

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