雨はいつもありのままの姿と
あれらの寂しい降りやうを
そのまま人の心にうつしてゐた
「-------------」
太公望が目覚めたとき、室内は真っ暗だった。眠りについてから、まだそれほど経っていない。上半身を起こした太公望は、重い頭を窓のほうへ向ける。外も室内と同じように暗い。月も星も出ていないのだ。かわりに雨が地面を叩いている。ここ何日か続いている光景だ。
意識はすっかり覚醒してしまっていて、また眠る気にはなれなかった。寝台を抜け出し、夜着に上掛けを羽織る。周りに響かないように、そっと扉を開けた。
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内庭に面した回廊を、太公望はゆっくりと歩く。所々に配置された灯りのおかげで、銀糸がまっすぐ地面に落ちていくのがはっきりと見えた。視線を足元に落とす。いっそ風が吹き荒れて、雨が回廊に吹き込んで来るくらいなら良いのに、と思った。------こんな雨は、消えていった人たちを思い出させる。
「スース?」
不意に自分を呼ぶ声が聞こえて、太公望は顔をあげた。
「心ここにあらずって顔で歩いて、どうしたさ」
こんな時間に、と続ける青年はわずかに離れた欄干にもたれてこちらを見ている。本当に上の空だったようだと、太公望は思わず苦笑した。まったく気づかなかった。
「これからどう進軍するか考えていたら、目がさえてしまってのう。寝る前にちょっとした散歩だ」
この程度の嘘など、太公望には造作もない。それより覇気のない表情で煙草を燻らせる青年のことが気になった。彼も自分のように、雨に誘われてしまったのだろうか。
「おぬしこそ、何をしている」
「ほたる族。ここはちいと冷えるさね」
「早く床に入れ。身体にさわるぞ」
肩を叩く動きが、どうしてもいたわるようになってしまう。気を抜くと腹にいってしまいそうな視線を引き離し上向くと、妙に静かな目とぶつかった。
「夢見て起きた時くらい、軍師の顔はやめたらどうさ」
「天化・・・」
非難めいた響きはなかった。それなのに太公望は、名前を呼んだきりあとが続かなくなってしまう。
見抜かれたことがショックなのではない。天化らしくない切り込み方が、太公望に衝撃を与えた。
「・・・悪かったさ」
ふいと天化が顔を背ける。いかにも居心地が悪そうな横顔だ。らしくないと思ったのは、彼も同じだったのかもしれない。
「俺っちも半分くらい心がどっか行ってたみたいさ。スースも早く休んだほうがいいぜ」
「・・・ああ」
がっしりとした肩から手を離す。天化はその手の動きを追うように視線を太公望に戻すと、苦笑いを浮かべた。
「本当に悪かったさ。ちょっと考えごとしてたもんでね」
「わしは気にしておらんよ」
膝をつき頭を下げたいというどうしようもない衝動が押し寄せてきた。
謝って罵り返されたら、どんなにか楽だろうと太公望はいつも思う。
だが目の前の青年も含め、誰もが優しく彼の謝罪を拒んでいる。それを知っていて、自分の満足のために頭を下げられる太公望ではなかった。
だからこの時も笑ってみせた。------嘘は得意なのだ。
「部屋に戻るわ。・・・おやすみ、スース」
「ああ、また明日な」
片手をひらひらとさせながら、青年は遠ざかっていく。その背中を見送っていると、雨音が激しさを増していくような気がする。
任されたものの中には、彼もいるはずだ。
(しかし、わしになにができるだろう。武成王)
目を伏せて、再び歩き出す。
冒頭の詩は室生犀星「雨の詩」より。もう1つ続きます。
[12/06/12]