冬の巣

 

何度目かの呼びかけが無駄に終わると、楊ぜんは扉を叩くのをやめた。扉の奥に耳を澄ませてみても、返事はおろか、物音一つ聞こえない。乾元山名物の機械音が原因で気付いてもらえないのではないか、という一抹の期待はあっさりと裏切られた。

物音だけではない。洞府からは人の気配がまるで感じられなかった。本当に主はいるのだろうか、と楊ぜんは怪しむ。ほとんどためらいもせず取っ手に手をかけると、扉はなんの抵抗もなく開いた。仙界には鍵をかける習慣がないので、これだけでは居留守とも不在とも判断がつかない。自然と忍び足になって洞府に入る。勝手に上がり込むことへの後ろめたさは大してなく、どんな状況が待ち受けているか分からないことへの不安が圧倒的に勝っていた。

 

 

 

「あいつが変だ」
 

多少は落ち着きを身につけつつあるものの、ぶっきらぼうな物言いは変わらない少年に、楊ぜんは困惑した。こういう場面で「あいつ」と呼ばれる人物は一人しか思い当たらなかったが、その彼の話をするためにナタクが自らやって来るのはとても珍しかった。

 
「あいつって・・・太乙様?」
「ああ」
 

思わず外の天気を確認してしまう失礼な新教主である。
ナタクは楊ぜんの不審な行動の意味がわからないのか、特に苛立った様子もなく繰り返した。

 
「あいつが変だ」
「あの方はいつも変だと思うけど」
「いつも以上だ」
 

それは大事だと軽く流しながらも、この時点で楊ぜんは嫌な予感を覚えていた。

 
「それで?一体どう変なの?」
「・・・見ればわかる」
 

シンプルすぎて何もわからない答え。
ナタクは言うべきことはすんだとばかりに、口を真一文字に結んで楊ぜんを見下ろしている。楊ぜんは一番労力を節約できる道を選んだ。だてに長い付き合いをしていない。

 
「要するに僕が行って見てくればいいんだね」
 

どのみちナタクがわざわざ報告に来たとなれば、何があったのか自分の目で確かめずにはいられない。ナタクは納得したのかよくわからない表情のまま、挨拶もなく窓から飛び出して行った。無礼者が多い新仙界といえども、教主の部屋を窓から出入りするのは彼くらいのものだ。

 

 

 

うっかりすると旧洞府の間取りで歩きそうになりながら、楊ぜんはとりあえずラボを目指す。太乙がいる確率が一番高いスペースだし、他の部屋がどう配置されているのか彼は把握していなかったのだ。この洞府へはまだ通信網が巡らされていなかった頃に仕事の依頼で二・三度来たきりだ。仙人の時間ではそう昔のことでもないが、まだ人間界の記憶が生々しい楊ぜんには、前回の訪問から大分時が流れたように感じられる。それは新しい仕事が予想以上に充実しているせいでもあった。記憶を反芻しながら、一つだけ目立って立派な重たい扉を押した。半分開いた隙間から部屋を覗き込んで、一度動きを止める。

ラボは暗幕が引かれていて、廊下よりも暗いくらいだった。もっとも、流れる血のせいか夜目がかなり利く楊ぜんにとって支障はない。彼が入口で立ち止まってしまったのは、部屋の風景が記憶にあるものとあまりに違ったからだった。多少スペースは狭まったものの、ラボの様子は旧洞府とそう変わらなかったと楊ぜんは記憶している。物が溢れていて、本人だけが使い勝手が良いと主張する雑然とした空間。物々しい機械が通行を妨げるように点在していたせいもあって、実際よりもこじんまりとした印象を受けたものだ。それが今はやけに広々としていて、床に点在していた失敗作の一つも見当たらない。ナタクを修理する台が以前と同じ場所に据え置かれているのを見て、楊ぜんはようやくここがラボだという確信を得た。まるで遠出でもするみたいだと何気なく思い、薄ら寒い気持ちになる。一体どこへ行くというのだ。

主がここにいないことはすぐにわかった。一目で部屋を見渡せるが、それ以前に気配が全くない。空気もこもっていて、出入りする人間がいない日が続いている雰囲気だ。これもまた楊ぜんには馴染みのないことだった。太乙といえばともかく暇さえあればラボに籠っている印象がある。新仙界の施設整備は少し前にひと段落して、太乙は手すきになっていたが、楊ぜんは太乙が何をしているかなど考えてみたこともなかった。

ひとまずラボに足を踏み入れてはみたものの、次に何をしたものか困り、手近な机に腰掛ける。机には本当に薄らと埃がかかっていた。この部屋が前回使われたのはそう前のことではないらしいと推測する。改めて部屋を見回すと、妙に片付いたラボは見知らぬ人の家のようだった。勝手に玄関をくぐった時には感じなかった居心地の悪さが急に襲ってくる。

 
「楊ぜん?」
 

背中への警戒がお留守になっていた楊ぜんは、突然かかった声に身体を強張らせた。声の主が誰かも考えず、反射的に振り返る。

 
「雲中子様・・・・」
「君とこんなところで会うなんて奇遇だねえ」
 

なにがおかしいのか、雲中子はくつくつと笑いながらラボに入って来た。楊ぜんは詰めていた息を、盛大なため息にして吐き出す。

 
「驚かさないでくださいよ・・・」
「驚かしたのはそっちじゃないかい。戸を開けてやった覚えはないけど」
「雲中子様が留守居をなさっているんですか?」
 

太乙と雲中子は変人同士仲が良い。てっとり早く事情を聞き出せそうな人物にあたれたのだと思い直して、楊ぜんは苦手な相手に話を振る。雲中子は、楊ぜんが座る机とセットの椅子に腰を下ろした。珍しくこちらの意向に沿った展開に進めてくれそうな気配に、楊ぜんは安堵する。

 
「まあそんなところかな。何か飲むかい?大したものはないけど」
「いえ、結構です」
「そう?残念」
 

何が残念なんだと楊ぜんは突っ込みたかったが、心の中だけに留めた。雲中子がその気になっているうちに話を進めてしまうことだ。

 
「太乙様はどこかにお出かけになっているんですか?」
「いや、奥で寝ているよ」
「どこかお悪いんですか?ナタクが心配しているみたいなんですけど」
 

太乙が妙な時間に寝ていること自体は大して珍しくない。釈然としない気持ちで、楊ぜんがここに来た経緯に触れる。飛び出した名前に、雲中子は細い目をわずかに大きくする。驚いているというよりは面白がっているらしかった。

 
「太乙なら別にどこも悪くないよ。ただずっと眠っている。もうかれこれ一週間ほどね」
「一週間・・・?」
「私特製の睡眠薬を飲んでね。・・・おっと、もう何百年も前から仙界中で使われている安全なやつだからご心配なく」
 

一瞬で剣呑な雰囲気を醸し出した楊ぜんに、雲中子がのんびりと手を振ってみせる。そして深く座り直して、広めの背もたれにゆったりともたれた。椅子が立派なせいで、そのまま昼寝でも始めそうに見える。楊ぜんは焦れて促した。

 
「一体何があったんです?」
「何も。ありったけの薬を飲んで寝こけているだけさ。あれは飲んだ量に応じて睡眠時間が延びる薬なんだ。
 仙道だから特に問題はないよ。ずっと食べていないから、起きた頃には多少やつれているだろうけど」
「そうは言っても、このまま起きなかったら・・・」
「それはないよ。薬が切れたら寝ていられないから。あと一週間くらいじゃないかな」
「どうしてそんなに眠り続けられる量を処方なさったんですか」
 

嘆くように楊ぜんが天井を仰ぐ。雲中子は心外だとばかりに眉を上げた。

 
「太乙がためていたんだから仕方がないじゃないか。まったく困った奴だよ」
「すみません。話がよく見えないんですけど」
「大戦後の太乙はあまり寝ていないようだったから、薬を処方していたんだ。一つも飲んでいなかったみたいだけどね」
「・・・・・」
 

楊ぜんは黙り込む。太乙には何かと用事があって定期的に顔を合わせていたはずなのだが、実は太乙の状態をよく把握できていなかったことに今更になって気がついた。
雲中子は淡々としたままだったが、珍しくフォローめいたことを言った。

 
「なにも君がそんな顔をすることはない。太乙が望んだことなんだから。
 それに彼はあれで結構意地っ張りだからね。君に知られたくはなかっただろう」
「・・・師匠をお呼びしましょうか。ここに」
 

元々神界と仙界は不自由ながら交流がある。教主の権限を持ってすれば、実現はわけのないことだ。どんな時も慈しみ合っていた二人の姿は楊ぜんの胸に今なお鮮烈だった。太乙は特例を嫌がるかもしれないが、今の彼には無条件に縋れる相手が必要なのではないか。
しかし雲中子はそっけなく肩をすくめるだけだった。

 
「玉鼎を?こういう場合、死んだ奴に何ができるんだい」
「それは・・・・」
「君はなにか要らぬ心配をしているんじゃないか」
 

楊ぜんはただ真意を問うように見返すことしかできない。

 
「わかるかい。太乙はただ疲れてしまっただけなんだよ。
 生きていると元気でばかりはいられないのさ」
「・・・・」
「疲れた時に必要なのは休息だ。励ましや慰めじゃなくてね」
「・・・・つまり、時間が経てば太乙さまは元に戻られると?」
「自分でどうにかするしかないこともあるんだよ」
 

雲中子は立ち上がって窓辺に歩み寄る。重たくぶらさがった暗幕をざっと端に寄せると、西日が差しこんできた。この洞府に入ってたった数十分で忘れていた明るさに、楊ぜんは目を細める。研究者も光を全身に浴び、眠たげな顔が幾分血色よく見えた。

 
「太乙は大丈夫だ。外にいる彼にもそう伝えてくれるかい」

 

 

 

 

雲中子に追い立てられるように洞府を出た楊ぜんは、普段では考えられないほどのろのろと近寄ってくる人影に少し驚いた。

 
(追いかけなくちゃ話せないかと思っていたのに)
 

仲の悪い師弟だとは元々思っていないが、反発ばかりしている常日頃を考えると微笑ましくなる。
立ち止まって見守っていると、ある地点で二人の距離がぴたりと止まる。楊ぜんは苦笑して、動きを止めた少年の前まで歩いて行った。

 
「・・・・・・・行ったのか」
「行ってきたよ」
「あいつに会ったのか」
「ううん。雲中子様とお話しただけ」
 

ナタクが開きかけた口をつぐむ。一瞬泳いだ視線が洞府を向いたのを楊ぜんは見逃さなかった。

 
「・・・それで、どうなんだ」
 

押し殺したような声に、楊ぜんははたと気付く。
雲中子がいるのにわざわざ楊ぜんを呼び寄せて。心配で心配で。様子を聞くために楊ぜんが出て来るのを待ち構えて、そのくせ洞府には近寄ろうとしない。

恐れているのか。あのナタクが。

音が漏れてこない廊下ややけに整理されたラボの冷たさを、この素直な少年は一体どう感じたのだろうか。変化に乏しい表情には確かに焦燥の色が浮かんでいる。陽の光が飄々とした高仙から疲労をあぶりだした瞬間を楊ぜんは思い出した。

 
「太乙さまはね、今冬眠しているんだよ」
「冬眠?」
「時間が経てば目を覚ますってことさ」
「・・・・俺を治せるのはあいつしかいない」
 

そう、大丈夫に決まっているのだ。
眠りこんだあの人を、傍らで見守り続かずにいられない人がいるから。眠りから覚めるのを待ち切れずにいる人がいるから。そんな人がたくさんいるから。
そしてあの人がそんな自分たちのことを忘れてしまうことはないのだ。
不意に揺らいでしまっても、戻ってこないはずがない。

楊ぜんはにこりと笑う。

 
「それ、太乙さまが起きたら言ってあげなよ」
「・・・・」
 

ナタクはぷいと横を向く。その仕草がただ照れただけのものだったことが、楊ぜんを無性にほっとさせた。

 

 

 

 

fin

珍しく題がすんなり決まりました。三周年記念。いつもありがとうございます。

[2013/04/07]

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