せせらぎが近い。
手を伸ばせば濡れる距離で湖が広がっている。中央のもっとも深いであろうところでも、うっすらと青づいただけでほとんど透明だ。見上げてみれば予想通り、たっぷりの水に溶いた絵具でひとなでしたような空が広がっている。空の色に合わせて水の色も変わるのだと教えてくれたのは師匠だった。思い出もその人自身も、今となっては遠い。大戦はたった数か月の出来事だったのに、その前にあったすべてを隔ててしまった気がした。現に僕は前回こうして師叔の釣りについてきた時のことをはっきりとは思い出せずにいる。
それだけに師叔が愛用の釣り針を取り出したときには、ひどくほっとさせられたものだ。はっきりと聞いたことはないが、まっすぐな釣り針の由来があの大戦で散った若き仙だということに僕は薄々気づいていた。だからもしかしたら無二の友人の存在と一緒に、このおかしな趣味も手の届かない世界に押し流されてしまうのではないかと、今となっては馬鹿馬鹿しい心配をしていた。
きらきらと光る水面に目を細める。まっすぐな釣り針はただ一時水の流れを割くだけで、この静かな景色になんのドラマも起こさない。周期的に小さなうねりを繰り返す水面が、時折日光の反射とは違う銀色で光るのだけが、変化らしい変化だ。魚の背びれでも光っているのだろうか。僕らの日常が嘘のように思える穏やかな午後だ。
こんな時間を二人は一体どれだけ共有したのだろうかと想像すると、目の前の平和とは裏腹に心が波立つ。今師叔と過ごしているのは僕だというのに、並び立つもののない一番でないと気がすまない僕はなんて小さいんだろう。並び立つもののない一番になんて永遠になれるはずがないのに。だってあんなにも鮮やかにあの人は行ってしまったのだ。
「さて、そろそろ帰るとするかのう」
師叔の声と共に、釣り針が水の中から姿を現す。まっすぐと水面を指す針の先のきらめきで、僕は我に返る。
「まだいいじゃないですか。何か月ぶりかの休みなんですから」
「いや、もうよいのだ。喉が渇いたから桃を食べたいしのう」
打神鞭を軽く振り、針を引き寄せる。捉えられた釣り針がぽたりと雫を落とす。師叔の手袋が針を一撫でした。慈しむような動作に僕の胸がまた疼くのがわかる。
僕はどうしたって嫉妬せずにはいられない。まっすぐな釣り針。師叔そのもののような、誰も傷つけない釣り針。僕がただ憧れるしかないそれを師叔に与えた人が確かにいるのだ。
きっとあの釣り針は赦しなのだ、と僕は思う。どれほどの人間や仙道を犠牲にしたとしても、魚を殺さない生き方を選びとってもよいのだと。血にまみれた道を進むしかない師叔に、それでも死なせまいと願う心は間違っていないのだと。てのひらに収まるほんの小さな金属を渡すことで、あの人は師叔を丸ごと肯定してしまったのだ。
大切な人が思われるということはなんて苦しくて、温かいことなんだろう。
「帰ろうか、楊ぜん」
「ええ」
岩からひらりと飛び降りた師叔の後ろに立つ。それ以上の言葉もなく、二人で来た道を引き返す。こんな風に師叔の釣りを見ながら過ごすことが、次はいつできるだろう。少し前を行く人を見る。仰々しい服で誤魔化していてすら、その背中は小さい。瓦礫の中で丸まった背中を遠くから見た時には、あまりの小ささに絶望すら覚えそうになったほどだ。けれどもこの小さな人は今も凛と立ち、風を起こし続けている。
今はまだ聞けないけれど。
今は耐えがたい痛みを呼び起こす名前を、いつか優しい気持ちで口にできるようになったら。その時はあの釣り針を誰からもらったのか師叔に聞いてみたいと思う。僕は既に答えを得ているけれども、それでも彼の口から直接聞いてみたいと思う。あの人の名前が出てきたら、僕はきっと少しは面白くない顔をしてしまうんだろう。なるべく隠すつもりだけれど、師叔なら僕の虚勢なんて簡単に見破ってしまうに違いない。からかわれたりしたら、ますます渋い顔をしてしまいそうだ。
それでも僕にはあの釣り針を持たない師叔を望むことはおろか、想像することすらできないのだ。
fin
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あの釣り針がもらいものだと知った時、すごくしっくりきました。師叔以外の視線を含まないとしたら、あまりにも師叔的過ぎるような気がしたので。
[2012/04/07]