かわいそうに、と太乙が呟いた。
すぐに山ほどの反論が思いついたが、いざ口を開いてみると何から話したらいいのかわからず、結局太乙に気付かれないようにそっとため息をついただけだった。
ベランダでしゃがんでいる太乙の前には支柱が数本立ったプランターが置かれている。つたの絡まる支柱を押しのけるように濃い色の葉が所狭しと並んでいて、その隙間から和紙を縒ったようなつぼみが二三のぞいている。どこにでもある普通の朝顔だ。太乙がそのつぼみのうちの一つを、優しい手つきでてのひらの上にのせる。花弁によった皺は明らかに水分を欠いたことによるもので、花の盛りが過ぎてしまったことを示していた。
いまだつぼみは花開いていないというのに。
「二・三日中に咲くかと思ったんだけど、多分このまましぼんじゃうね」
声は決して小さくなかったが、それでもやはりひとり言のようなものだ。私は何も言わなかった。
太乙がどこからか黒い種を手に入れてきた時、おまえに朝顔は似合わないとからかった私に、彼は意外にもまじめな表情を向けた。
朝顔ってよく小学生が育ててるでしょ。だから私でもできるかと思って。
太乙に園芸の経験がなかったわけではない。むしろこれまでにおびただしい数の種を土に埋めてきたくらいだ。それにも関らず自虐的ともとれる言葉を口にしたのは、これまで思うような成果があげられなかったせいだ。どういうわけか、太乙が育てる植物は花を咲かせることがない。緑の葉はいつも若々しく生え茂るし、小さなつぼみをつけるところまではたいていうまくいく。だがそれだけなのだ。はなびらは固く閉ざされたまま、花の一番美しい時間だけをスキップするかのようにつぼみのかたちで枯れていってしまう。
太乙が世話を怠った結果ならどれだけよかっただろう。しかし太乙はいつも知識に照らし合わせて最もふさわしいと思える栽培方法を、子供に対するようないつくしみを持って実行している。それは彼があらゆる物事に対して取る姿勢を植物にそのまま向けただけだったから、うまく実を結ばないことがますます気の毒に思えるのだった。
「私も器用なもんだ」
咲くところだけきれいに避けて通るんだから、と太乙は冗談めかした口ぶりだったが、あながち的外れな感想でもなかった。このベランダで起こっている現象は魔法にかかっているかのように不自然だ。いや、かかっているとしたら呪いだろうか。いっそ芽も出ないくらいなら、最初から期待もしなかっただろうに。
真後ろに立っている私には見えないが、恐らく太乙は笑っているのだろう。そうやって笑うたび、太乙の中に諦めが降り積もっていく。雪が降るのより静かなその気配は、心を芯から凍らせてしまうほど寒々しい。
いつか降り積もった諦めは踏み固められて、地面の代わりになってしまうのだろうか。
+
「花が咲くまで枯れない植物を作ってくれないか」
崑崙大学理工学部生物学科の研究室。学生も用事がない限り近寄らない、崑崙大きっての魔処だ。主の雲中子は太乙の学生時代からの友人で、今では私の友人でもある。
来客くらいで実験を中断しない彼が見ているのは、当然ながら私ではなく、目の高さに掲げたフラスコだ。
「君もなかなかに見境がないね」
にやりと擬音をつけたくなる笑みの微妙な差がまだいまいち読み取れない。対して雲中子の方は、こちらを見透かすようなせりふを言うものだから、隠し事など無駄だと思ってしまう。もっともそんなものは特にないが。
「素知らぬ顔で太乙に育てさせるのかい?そういう嘘は苦手なのかと思っていたんだけど」
「・・・太乙がしおれていくんだ」
フラスコを作業台に置き、雲中子はこちらに一瞥をよこす。
今の眼差しにこめられた感情はわかる。呆れと憐みが半々、といったところだ。
「たかだか花なのに、必死だねえ」
「たかだか太乙、とは言えないだろう」
「もちろん。私が言ったのは君じゃなくて、太乙のことさ」
まっすぐとこちらを見たのはほんの一瞬。雲中子はまた机の上の器具をいじり始める。はっきりとした目的意識が感じられる無駄のない動作だが、あいにく私にはその意味などわからない。
「まあ考えてはおくよ。でもそれより、花が咲かない植物を育てればいいんじゃないかい?」
シンゴニウムとか、ポトスとか。さすが生物学者と言うべきか、よどみなく名前を挙げていく。
彼の言うことは至極もっともで、私は思わず肩を落としてしまう。
「あれは、花が咲く植物しか育てようとしないのだよ」
きっと太乙は花が咲かないことを確認しているのだ。咲かないことを確認して繰り返し自分を傷つけているのだ。
では花が咲いても意味がないかと言われると、それは違う。
太乙が心の底から花が咲くことを望んでいるのは事実だから。日々水をやる植物が花を咲かせるのを見たときに、彼の中のなにかがきっと変わる。
けれども花は咲かないのだ。
「難儀なものだねえ」
ため息をついた雲中子はやはりどこか諦めたようで、私はまた悲しくなる。
+
大学から帰ると、太乙はソファで眠っていた。
こんな時間に彼が寝ていることは珍しかった。ここのところ慣れぬ早起きを続けていたから身体のリズムが狂ったのかもしれない。起こさないように、つけたばかりの電気を消した。もうとっくに日も沈んでいるのでさすがに暗いが、カーテンが開け放されていて近くの建物の光が差しこんでくるから、なじんだ部屋を移動するのに苦労するほどではない。
タオルケットを太乙にかけてから、スライド式のドアを静かに開けてベランダに出る。昼間のままのプランターの前に、昼間の太乙のようにしゃがみこむ。
前にある柱に遮られて、プランターには近隣の建物からの光が届かない。代わりに頭上の月明かりが朝顔を照らしている。薄桃のつぼみが今は白っぽく幻想的に照らし出されていて、昼間よりもずっとみずみずしく見えた。実際太乙が水をやったらしく、はなびらにも葉にも水滴がついている。水滴に月明かりが透けて、薄闇の中にも美しく輝いていた。水をやり光にかざせば、花なんて勝手に咲くものだと思っていた。それが今では海が割れるのを祈るかのような心境で、当たり前のはずの自然現象を待ち望んでいる。
たった一度、ほんの一時だ。だから、どうか。
てのひらの上を移動して、この身の生気が流れ込んでいけばいい。
+
運命に抗わず、朝顔は枯れていった。
一度流れ出した命を止めることはできず、その勢いは増すばかりだった。つぼみがかさかさに干からびて間もなく葉が黄ばみ始め、植物全体から水分が失われていくのに時間はかからなかった。
花を待ち焦がれていた太乙は、それでも変わらず丹精込めて世話をし続けた。日に日に縮む植物が、完全にその色を失うまで。
「水をやるのも今日が最後だね」
私の目にはとっくの昔に最後の水やりがすんでいてもおかしくない茶色く乾ききった葉を、白くほっそりした指がゆっくりとなでる。
「花をつけないから、命をつなぐこともできない」
太乙の声には感情が感じられず、ただただ重い疲労感があった。
「・・・・・かわいそうに」
おまえは精一杯やったとか、あとほんの一歩だとか、花は咲かずとも懸命に生きたとか。
やはりその時も様々な思いが渦巻いていたが、私は沈黙を守った。
何から話したらいいのかという戸惑いは、何から話しても何も話さなくても同じだ、という確信に変わっていたから。
かわいそうに、と同じ言葉を心の中でだけなぞってみる。
私は多分、おまえと同じ思いを抱いているのだろう。ただ行き先が違うだけだ。おまえは花に、私はおまえに。
だからわかる。どうにもならないことへの痛みは、どうにかなることでしか癒されないのだと。どうにもできない者には、せいぜい分かつことしかできない。
それきり黙りこくった太乙の隣にしゃがみ、ベランダをすり抜けていく生温かい風に吹かれる。
二人並んで今日限りと宣告されたばかりの命を見つめていると、こんなにも望まれているのだから幸せでなかったはずがないのにと思わずにはいられなかった。
fin
「花を咲かせられない男」という設定は子供時代に読んだ本から拝借しました。
もう一度読みたいのですが、タイトルもストーリーも思い出せません。
[10/07/24]