今日のラボは静かだ。
派手な機械音のイメージが強い乾元山も、時に水を打ったような静寂に包まれる。そしてその静けさは、主の精神状態と必ずしも合致しなかった。ほとんど物音を生まない作業というのは細心の注意を要する際どい仕事の場合が多く、むしろ洞府には息が詰まるような緊張感が満ちていることがほとんどだ。

道徳は作業台の正面の長椅子に腰かけ、先ほどから同僚の作業を見つめていた。
と言っても道徳が見ているのは仕事の内容ではない。太乙の集中を乱さない程度に距離を置いた位置から見るにはあまりにも微細な作業だし、見えたところでその意味がわかるはずがない。今太乙が取り組んでいるのは宝具の匠の技を持ってもなお至難の研究で、十二仙といえども門外漢にはまったく理解の及ばない領域にある。

それでも道徳は飽きることなく太乙を見つめ続けた。作業用の強力な光の下いつもにも増して白く見える手が一時も休む間なく動いているのを、熱心に追っている。視野が極限まで狭くなっている太乙は、当然その視線に気づかない。自分の行為が集中を妨げることはないと知っていて、道徳は秘かにこれを絶好の好機としていた。彼は太乙の手が好きだった。

その手が不意に動きを止め、道徳は慌てて視線を太乙の顔に移す。ほとんどゴーグルに隠れた顔が、いかにも不機嫌そうにしかめられた。盛大なため息と共に、背もたれに倒れ込む。外科医のメスに似た実験器具が手から離れ作業台に落ち、高い音を立てた。ゴーグルを取った太乙は、髪が邪魔らしく頭を軽く左右に振る。

 
「どうした?」
「失敗」
 

むすっとした子供じみた答え。太乙は大抵人当たりがよかったから多くの仙道が気軽にこの洞府へ出入りしていたが、気を許した相手に対しては遠慮なく不機嫌をぶつけることもあった。それをやれやれと軽く受け流せることが特別だと知っていれば、正直なところ満更でもない。

 
「何度目だ?」
 

だからからかうように尋ねれば、

 
「数えてない」
 

ますます下降する声のトーンに、道徳は思わず笑い声をあげてしまう。太乙はじろりと道徳に目をやると、またため息をついて天井を見た。脱力するような姿勢からは疲労感がありありと伝わってくる。道徳は椅子から立ち上がり、太乙の背後に回る。座った太乙より大分高い位置から作業台を見下ろすと、今さっきまで太乙が格闘していた小さな金属片が目に入った。ここまで近寄ってみても、ごく小さい。

 
「こんなに小さいのか。目が痛くなりそうだ」
「目だけじゃなくて全身くたくた」
「そりゃそうだよなあ」
 

感嘆を込めて同意した道徳は、机の上に目を凝らす。最初は純粋に太乙の本日の成果を見ていた目が、すぐそばに力なく広げられた手に意識が移った途端、身体がかっと熱くなった。

 

 

先ほどの決して短くはない時間、ある温度を越えないようにくすぶらせていた火が、思いがけず燃え広がってしまったのだろうか。触れたい、と強烈に思った。言葉にしてしまえば初心な少年の他愛もない望みのようだったが、その欲求はまるで魔物のような獰猛さで道徳を駆り立てていた。手を取ったあと何がしたいという考えは、不思議と全く浮かんでこなかった。ただ作りもののようにほっそりとしたその手に自分の手を重ね合わせたい。白い肌の下に宿る熱を感じ取りたい。ただそれだけ。

だがその衝動がそもそもどういう思いに根ざしているのかを道徳は嫌になるほどに理解していた。手に触れるというそれ自体は罪のない些細な行為は、まだ秘めていたいその思いを容赦なくむき出しにしてしまうだろう。

 

 

目をきつく閉じ、太乙に気付かれないようにゆっくりと息を吐き出す。知らず汗ばんでいた手を目の前の肩に置き、道徳は何事もなかったように笑った。

 
「根詰めてばっかりいるのがよくないんだ。少し休めよ」
 

道徳はてのひらで、骨ばった肩から力が抜け落ちていくのを感じた。
太乙が作業台に肘をつき、身体をひねって道徳を見上げる。一瞬前まで苛立ちに荒れていた黒い瞳は、憑き物が落ちたように穏やかだった。

 
「それじゃあお茶いれてくれない?左の棚の一番手前のやつでね」
「はいはい」
 

仕方がないなと大袈裟に肩をすくめ、道徳はあっさりと太乙に背を向ける。この場を一度離れられるなら、どんな口実でも大歓迎だ。てのひらにわずかに残る熱の感触を握り締めて、ラボスペースを出る。肩になら簡単に触れるのにと思うと、らしくない自嘲が口元に浮かんだ。

 

 

 

ほんの数十センチがむやみに遠い。

 

 

 

 

fin

2013年バレンタイン記念。太乙って手がきれいですよね、というお話でした。
毎度ながらお砂糖控えめで申し訳なく・・・。

[2013/02/14]

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