女カが倒れ、人間界は新たな歩みを始めていた。
仙道はみな神界と新しい仙人界から人間界を見守り、基本的には干渉していない。それでも興ったばかりの周は人間たちの手だけで、危なっかしくも着実に前に進み続けている。真に未知の歴史がようやく始まったわけだが、そうとは知らぬ人間たちは今までと同じように一日一日を懸命に生きていた。
殷は、もはや遠い。
その場所は深い孤独に閉ざされている。来る者も出る者もなく、冷たい空気が滞っている。
「陛下」
質素な建物の戸を開けると、紂王陛下は殺風景な部屋の真ん中にただ座っていた。私を見ると、ぱっと表情が華やぐ。
「おお、聞仲。よく来てくれた」
わざわざ立ち上がって、出迎えすらする。ほんの少し見ぬ間にも、時を重ねぬはずの魂魄体が日に日に老いさらばえていくように感じる。それが辛い。
招かれるまま陛下と向かい合って座り、ご機嫌伺いも世間話もなしに切り出した。
「毎日なにをしておいでですか」
王は訪問の意図を悟ったのだろう。薄い苦笑いを浮かべた。
「色々な考え事を。考えることが多いゆえ、退屈はせぬよ」
「ずっとここで、お一人で過ごされるつもりですか」
「・・・余は、あまりにも多くの取り返しのつかぬことをしてしまった」
余が表に出れば多くの者に不快な思いをさせるだろう、と。
かつて英明な君主と呼ばれた頃の顔に諦観を漂わせて、淡々と続ける。
殷はもはや遠かった。
時が流れ、場所が移り、生命としてのあり方も変わり。
だからこれが私の最後の仕事なのだ。
「陛下のご乱行も、殷の滅亡も、全ては道標の筋書きにすぎません」
「だからと言って余の罪が消えるわけではあるまい」
「ええ、その通りです。ですから陛下は罪を背負って生きてゆかねばなりません」
王を取り巻く空気が変わった。
「生きろ、と申したな?」
「はい」
「今の余のあり方は間違っていると思うか」
かたちこそ問いのかたちをとっていたが、もはや答えなど必要ないことは明らかだった。
無言のままの私に、紂王は寂しげな笑みを向けた。
「夢を見る。羌妃、太子、武成王・・・余が踏みつけにした者たちが、口々に余を呪う夢を」
ゆらりと陛下が立ち上がる。そのたたずまいは人の上に立つ者だけが持つ荘厳なものだった。私は思わず息を飲む。
「非難されることが怖いのではない。それを正面から受け止めるのが償うということだ。
・・・だが、彼らにせっかく訪れた平穏を乱すのではないかと、それだけが怖いのだ」
「・・・ええ」
幼少のみぎりよりお仕えしているからわかる。その言葉に嘘いつわりはないと。
私も立ち上がる。人間界にいた頃は、同じ高さの地面に立つことなど王が子供の頃しかなかった。壇上ではない、等身大の王。子供だったころは昨日のようだというのに、こんなにも立派になられていたのだ。
「その者たちはみな、あなたが愛し、あなたを愛した者たちではありませんか」
まっすぐと目を見つめると、同じ強さで見つめ返される。試すように、確かめるように。
「一度愛した者をなかったものとして、生きていくことができましょうか。
穏やかに日々が流れても、過去の感情に決着がつかなければ、それは仮初の平穏です」
「・・・おまえの言う通りかもしれない」
王は一言そう言うと私に背を向け、窓辺に寄り外を見る。
潮時だと感じた私は、戸口に歩を向けた。
「それでは陛下。今日のところは失礼します」
「聞仲」
呼び止められて振り返ると、陛下はこちらを見ていた。向けられた眼差しには力があり、ここに来た時とは別人のようだ。
「余に名前をつけてくれぬか」
「名前・・・ですか?」
全く思いもよらない依頼だった。私は間抜けな顔をしていたのだろう。陛下が吹き出す。憂いのない、子ども時代のような無邪気さで。
「余はもう王ではない。
おまえは余の親のようなものだから、新しい名をつけてもらいたいのだ。頼めるか?」
「・・・承知いたしました」
「かたじけない。今度は余の方からお前に会いに行こう」
おまえのくれる名を楽しみにしている、という言葉に送られて、私はかつて王と呼ばれた人の住居を辞した。
入った時には高かった陽が、かなり傾きつつあった。鮮やかな夕陽は、いつかと同じ美しさで輝いている。
赤く染まった空を見て、私の中で殷が本当に終わったのだとわかった。
悲しくないと言ったら嘘になる。けれども育み慈しんだもの全てが失われてしまったわけではないのだ。それが涙が出そうなほど嬉しかった。
「さて」
こみあげてくるものを誤魔化そうと、空の高いところを睨みつけるように見つめる。
これから、何をしようか。
fin
封神はドラマがたくさんあるので、ひいきのキャラ以外でも色々書けるのがおもしろいですね。
[2010]