朝があなたを訪れ、目覚めをもたらすまで

 

こっそりと崑崙に戻った太公望は、四不象を伴い真っ先に医務室に向かった。仲間たちは敵地に乗り込んだ彼らの無事を案じ、さぞかし気を揉んでいることだろう。みんなの注意を逸らすために、太公望は蝉玉を先に帰らせていた。半妖体の楊ぜんを人目にさらすことは何としても避けたかった。それが玉鼎の最期の望みだったのだから。

巨大な水槽に入っていく太公望の後について、背中に楊ぜんを寝かせた四不象も移動する。二人とも金ゴウにいる時からほとんど会話を交わしていない。太公望が両腕を伸ばせばそれだけで四不象は心得て、水面に腹がつきそうなところまで高度を下げ、胴を傾ける。ずるりと落ちてくる自分より一回り以上大きな体を太公望はなんとか受け止め、水に浮かした。楊ぜんは帰り道で気を失ったまま、意識を取り戻していない。さっきまで自分の背にいた男を心配そうに覗き込む四不象に、太公望はそっと声をかける。

 
「ご苦労だった。わしはここで楊ぜんを見ておるから、天尊さまと雲中子を呼んでくれるか。
 そのあとは蝉玉たちのところで待っていてくれ」
「・・・分かったっス」
 

何かを言いかけた四不象は、結局その言葉を飲み込んで短く答えた。主人の様子を気にかけるように何度も振り返りながら、従順に出口へ向かう。そっと閉められる戸の音を聞き、太公望はため息を一つついた。見下ろした苦しげな顔はまだ目覚めからは遠そうに思えた。目を閉じていると日頃より随分幼く見える。それとも師との別れに涙を流す姿を見たばかりだからそう感じてしまうのだろうか。太公望は右手袋を脱ぎ、頬に残る涙のあとをそっと撫でる。それはちょうど見慣れぬ模様をなぞるのに等しかった。てのひらに燃えるような体温が伝わる。あの優しかった男が命と引き換えに守り抜いたものだ。

玉鼎と最後に交わした会話が蘇る。楊ぜんの頬に手を添えたまま、太公望は目を閉じた。

 
(わしとしたことが、全然気づかなかったとはのう・・・)
 

 

 

 

 

「占いを教えていただけませんか?」
 

あれは趙公明から奇襲を食らう前の晩のことだった。仕事が比較的早くひけ私室に戻っていた太公望を、楊ぜんが訪ねてきた。すでに夜着に着替え寝台に寝そべって巻物を読んでいた太公望は、楊ぜんの言葉に少し驚いた。

 
「おぬし、占いなど興味があったのか」
「正直あまりないんですけど、あなたの占いはよく当たると武吉くんから聞いたものですから。
 それにできないことがあるってなんとなく悔しいじゃないですか」
「ははっ!おぬしらしいのう」
 

太公望が占術をたしなむことなど、楊ぜんはとうの昔に知っていたはずである。太公望は内心首をひねる。楊ぜんが仕事とは関係のない唐突な用事を太公望のところへ持ち込むのは初めてでない。用事などなくても邪険にはせぬのにと太公望はその都度思ったものだが、用件でもなければ私室に来ることもできない彼のやましさの正体を早くから察してもいたので、あえて指摘することはなかった。楊ぜんが太公望への気持ちを打ち明け、それが受け入れられてからは、わざとらしい口実を聞くことも自然となくなっていた。
それだけになぜ今更、と思わずにはいられない。

 
「よいぞ。ちょうど暇にしていたところだ。教授料は持ってきたのだろうな?」
「桃でいかがです?」
 

ちゃっかりしている思い人に苦笑しつつ、楊ぜんは手にした包みを掲げて見せた。長い付き合いではないが、このあたりの行動パターンはすっかりお見通しだ。相変わらずの手回しの良さに、太公望は満足げにうなずいた。

 
「上等。手相占いでよいか?他の占いに必要な道具は西岐に置いてきてしまったのだ」
「もちろんです」
 

太公望は巻物を閉じ、寝台から身を起こした。そのまま伸びをする彼を見つめ、なぜか楊ぜんは戸口に立ち尽くしたままでいる。いつもなら勝手に上がりこんでくるのにとここでもまた怪訝に思いながら、太公望は自分の隣をぽんぽんと叩いてやった。

 
「なにをしておる」
 

声にか動作にか、楊ぜんは我に返った。すみませんと小さく呟いて、通りすがりに包みを卓に置きながら寝台に近づいてくる。男一人の体重が増えても、硬い寝台はそれほど沈まない。まるで最初からそうするつもりだったように隣に来ながら、遠慮がちに浅く腰掛けた楊ぜんと目が合う。整った顔にわずかな緊張を見つけ、太公望はぴんときた。

 
(そういうことか)
 

自然と頬が緩むのを感じて、太公望は慌ててまじめな表情を繕う。まったく別の方向に逸れた思考を占いに戻した。相手の考えを先読みしてペースを乱すような無粋をするつもりは毛頭なかった。

 
「それではおぬしの手を練習台にしよう。両手を広げるのだ」
 

楊ぜんは素直に両てのひらを太公望に向ける。太公望は笑った。

 
「それではおぬしが見えなかろうに」
「そうですよね」
 

楊ぜんは照れ笑いを浮かべながら、手を膝の上に置いた。一緒に笑って気持ちがほぐれたのか、こわばりが消える。いつもの調子を取り戻したのを感じながら、太公望は身を乗り出した。

 
「まずは右手と左手を見比べるのだ。どちらの方が細かいしわが多い?」
「そうですね・・・左の方が若干」
「それならそちらがおぬしの現状を強く反映しておるから、左手で占うのだ。三大線くらいは知っておるだろう?」
「すみません。知りません」
「おぬし、本当に興味がなかったのだな。玉鼎がやっておるのを見たこともないのか?」
「師匠は筮竹占い専門でしたから」
 

軽口を交えながら、太公望は生命線、頭脳線、感情線と見方を教えていく。楊ぜんも熱心に聞き入り、時折質問を挟む。興味がないと言うわりには真剣だと太公望は感心した。真面目なこやつらしい、という感想も同時に抱く。こんな調子で食らいついてくる弟子ならば、玉鼎はさぞかし仕込み甲斐があったことだろう。おまけに理解が抜群に早い。最初は三大線の説明で終えるつもりだった太公望も、興が乗って教える範囲を広げていく。それでも楊ぜんは雑然とした知識を瞬く間に吸収し、自分のものにしてしまうのだった。

 
「・・・とまあ、基本はこんなところかのう。質問はあるか?」
「そうですね。なにか占う時のコツはありますか?」
「コツか」
 

講義の終わりが近いらしいと察して、楊ぜんはさんざん指でなぞられた手を引っこめる。太公望は腕組みをして、少しの間考えた。

 
「しいて言えば雰囲気かのう」
「雰囲気、ですか」
「そうだ。鰯の頭も信心からと言うであろう?信じておる奴にはそれなりに効くものだ」
「・・・・なんだかペテンみたいですね、師叔が言うと」
「おぬし、それが人にものを習う態度か?」
 

むくれてそっぽを向いた幼い横顔に、くすりと笑いが漏れる。包み込むようなそれは楊ぜんが時折見せるものだ。普段は意識にのぼらない数百年の年月の差を不意にこうして感じさせられるたび、太公望は心地よいような照れくさいような複雑な気分になるのだった。この時も太公望はやや上ずった調子であとを続けた。

 
「それはともかく、やはりおぬしは呑み込みが早いのう」
「天才ですから」
 

返ってくるのは一転して子供っぽい受け答えだ。そのギャップにくらくらする。
今度は悠然と挑発的な笑みをたたえているに違いないと決め込んで、太公望は視線を戻す。だが、その先にあったのは思いがけず硬い表情だ。戸惑う間もなく、まなざしが徐々に距離を狭めてくる。太公望は目を逸らせない。

 
「僕はいつだってあなたの隣にいたいと思っているんですよ」
 

囁くように言葉を紡いだ唇が太公望の唇を塞ぐ。太公望は一瞬目を大きくしたが、ある程度予想していたこともあって、すぐに全身の力を抜き目を閉じた。頭の後ろに手が宛がわれ、ゆっくりと寝台に体を倒される。その優しい動作とは裏腹に、最初はただ重ねるだけだった唇が加速度的に貪欲さを増していく。激しいキスを受け止めながら、太公望は覆いかぶさってくる男の体に腕を回す。てのひらで背中に触れた途端、入れ替わりのように口元の熱が遠のいた。息を乱しながら、太公望は同じように不規則な呼吸が鼻あたりにかかるのを感じる。

しかしそれきり何も起こらない。不思議に思って目を開くと、見上げた男はきれいな顔を奇妙にゆがめていた。どうかしたのかと問う前に、楊ぜんが体を起こす。回した腕が自然と解け、布団の上に落ちた。

 
「すみません。明日早いことを忘れていました」
 

意図的にゆっくりとした口調は、逃げ口上と聞こえるのを恐れているように響いた。
太公望は身を起こすわずかな時間に、自分の態度を振り返る。拒絶しているようには受け取られなかったはずだと確信を持ち、事情はどうあれ、これは楊ぜん自身の意思なのだと結論付けた。大した効果はないだろうと思いながらも、彼が気にしないように明るく応じる。

 
「そうだったな。うっかりしておった」
「遅くまでありがとうございました」
「ああ。また気が向いたら来るとよい」
「ありがとうございます」
 

二度目の礼には明らかに気持ちがこもっていなかった。そこで会話が途切れ、気まずい沈黙が生まれる。だがさすがに楊ぜんはこれ以上失態を重ねなかった。優雅に腰をかがめて太公望の額に口づけてから、何事もなかったような足取りで扉に向かった。

 
「おやすみなさい、師叔」
「ああ。また明日な」
「もう今日ですよ。たぶん」
「そんな時間か」
「そうですよ。早く寝てくださいね」
「おぬしもな」
「はい。おやすみなさい」
 

定型文のようなやりとりを何往復かしたあと、訪問者は扉の向こうに姿を消す。太公望はしばらく狐につままれたような気持ちで閉まった扉を見つめていた。

 

 

 

 

それきり今日に至るまで「また」は訪れていないし、楊ぜんとの関係も変わらぬままだ。あの時感じた引っ掛かりを追及しようにも趙公明戦やら朝歌への進軍やらでそれどころではなかったと言ってしまえば、嘘ではないが体のいい言い訳になってしまうだろう。本当の理由は太公望が、二人の関係が変化しないことを良しとしたことにこそある。太公望は求められた時に応じる用意こそしていたが、現状を変えることに対する積極的な気持ちは持ち合わせていなかった。彼自身は精神的つながりだけから成る関係を不自然とは思っていなかったし、あれだけ熱烈に思いを寄せてきた楊ぜんがぐずぐずと同じところで足踏みしていることに関しても、感情と関係の一線はやはり違うのだろうと単純に解釈してしまった。決して楊ぜんを軽んじるわけではないが、本当に深く考えていなかったのだ。

 
(わしがあの時もっと気にかけておったなら・・・)
 

楊ぜんが見せたためらいを彼の負い目と捉えることができていたら。自信に満ちた彼がふとした拍子にのぞかせる臆病さの意味を、もっと深く考えていたら。もしかしたら楊ぜんの正体を見抜くことができたのではないだろうか。確信まで持てなかったにしても、可能性のひとつに数えるくらいはしていたのではないだろうか。

意味のない想像を一通り並べてから、太公望はかぶりを振る。

そうだとしても、結局はなにも変わらなかったのだ。たとえ彼の秘密に気付いていたとしても、本人から切り出すまでは知らぬふりを通したに違いない自分を、太公望はよく知っている。そして玉鼎からあの言葉を聞かされたら、何を知っていたとしても、やはり彼を行かせてしまったはずなのだ。

 
「おぬしもわしも、ここからが正念場だのう」
 

わずかに開いた口からは苦しげな吐息が漏れるだけで、答えは返ってこない。
小さな手が楊ぜんの頬を離れた。てのひらに残る熱ごと閉じ込めるように、太公望は手袋をはめる。そして汗で固まった前髪をかきあげ、渇いた唇を額に落とした。掠めるようなキスをひとつ。

 
「わしはいつまででもおぬしを待つよ。だから今は・・・おやすみ」
 

話し声と足音が近づくのが聞こえてきた。楊ぜんの顔にかかっていた影が小さくなり、すぐに消える。太公望は背筋を伸ばし、重い扉が開くのを待った。

 

 

 

 

fin

6666hitの鳩野まるみ様のリクエストでした。長らくお待たせしてしまってすみませんでした。
リク内容は「『おやすみ』をテーマに楊太orオールキャラ」。おまけに「楊太じゃなくても二人が出ていればいいです」というありがたいお言葉つき。
リクの自由度に甘えて楽しく好き勝手に書いたら、「おやすみ」という言葉の柔らかさからかけ離れた作品になってしまいました。
鳩野様、イメージと違う作品になっていたらごめんなさい!素敵なリクエストをくださり、本当にありがとうございました!

[11/07/30]

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